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バイオダイレクトメール vol.63 細胞夜話
<第25回:ネガティブな菌によるネガティブな反応 - グラム染色>

グラム染色はデンマーク人の研究者ハンス・クリスチアン・ヨアヒム・グラムが開発した染色法です。グラム染色は従来の染色に比べて格段に優れた手法だったのですが、その手法を紹介した彼の論文は、以下のように大変控えめな言葉で結ばれています。グラム自身、新しい手法が従来法より優れていることを分かっていながら、このような言葉を書いた真意は何だったのでしょうか。

Nur eine Schlussanmerkung will ich noch machen, nämlich diese, dass die Reaktionen der Zellkerne und Schizomyceten den Anilinfärbstoffen gegenüber unter anderen Verhältnissen fast identisch sind, während bei dieser Färbungsmethode ein sehr erheblicher Unterschied zu Tage tritt.

Die Untersuchungen über die Schizomyceten werden bei der Anwendung dieser Methode bedeutend erleichtert, daher habe ich meine Resultate publicirt, obschon ich sehr gut einsehe, dass sie noch sehr mangel- und lückenhaft sind. - Hoffentlich wird diese Methode auch in den Händen anderer Untersucher sich als eine brauchbare bewähren.

最後にもう一つだけ言わせていただくと、他の比率においてもアニリン染色に対する細胞核とSchizomyceの反応はほぼ同一ですが、これまでのところでは、この染色法ではかなりの違いが得られているということです。

この方法を用いるとSchizomycesについての研究は大変容易になるので、この方法には問題もあり不完全でもあることを重々承知の上で、私は私の実験結果を公表します。願わくば、他の研究者の手によって役立てられ、実用性が確かめられることを。

開発前夜 - 化学染料の開発

グラム染色に用いる色素といえばクリスタルバイオレットです。そのクリスタルバイオレットを含むさまざまな紫の色素は、19世紀に始まった化学染料工業との関係抜きには語れません。

19世紀、イギリスの王立化学大学にドイツの化学者ホフマンが招かれ、学生たちに化学を教えていました。 ホフマンは、ホフマン脱離、ホフマン分解、ホフマン則などで有機化学の教科書にも名前が出てくる、大変有名な化学者です。また、ホフマンの師匠は有機化学の確立に大きく貢献し19世紀最大の化学者の1人であるリービッヒで、これまた化学の教科書では避けて通れない有名人です。

そのホフマンの弟子に、ウィリアム・ヘンリー・パーキンという青年がいました。パーキンは17歳にしてホフマンの助手となり忙しい日々を送りますが、熱心な彼は自宅の一室を実験室に改造し、夜間や休暇中に自分の研究を進めていました。1856年、18歳のパーキンは、マラリアの特効薬であるキニーネの合成に関するホフマンの仮説を元に、アリルトルイジンを酸化することでキニーネを合成できるのではないかと考えて実験を行いました。アリルトルイジンとキニーネは全く構造が異なるため、結果は赤茶色のよくわからない沈殿ができただけでした。あきらめきれないパーキンは、同じことをもっと構造の単純なアニリンを開始物質としてやってみますが、これまた怪しげな黒い沈殿ができただけでした。この時、この沈殿を溶かすと美しい紫色になることに気付いたことが、パーキンにとっても、そして後の化学工業にとっても大きな転機となりました。パーキンが合成した紫の色素に触発されて、有機化学的に合成した新しい染料が次々に開発され、化学工業の隆盛につながってゆくことになります。

こうして生み出されたさまざまな染料の一部には細胞や細菌の染色に適したものがあることが分かり、顕微鏡観察の助けとなりました。しかし、後述するように当時の染色法はまだまだ初歩的なものであり、改善の余地が多く残されていました。

偶然の発見 - グラム染色の開発

グラムは、最初は植物学を専攻していましたが、後に転向して1878年に医学で学位を取得しました。学位取得後も病院に勤務しながら血液学の研究を続けており、1883年にコペンハーゲン大学一の微生物学者であるカール・サロモンセンの最初の微生物学の講座に加わるまでは、微生物学とはあまり縁がなかったようです。
グラムとサロモンセンの関係は大変良好だったようで、グラム染色の開発や、グラム自身のその後についての様々な事情をサロモンセンへの手紙に記すことになります。

その年、グラムはサロモンセンの紹介でベルリンのカール・フリートランデルの研究所に加わりました。ベルリンに到着して数日、グラムは腎臓の柔組織と管状円柱を染め分けるのが面白そうだと思いつきました(どうしてそのようなことを思いついたのか、今となっては分かりませんが)。当時は、パウル・エールリヒが考案した染色法が広まっていました。その染色法はゲンチアナ紫を利用したものだったのですが、細胞核、フィブリン、細菌、管状円柱が同じように染まってしまうという問題がありました。グラムは、何とか核だけを残して脱色し、後で管状円柱をビスマルク・ブラウンで対比染色しようとしました。

グラムの実験は「腎臓の柔組織と管状円柱を染め分ける」という当初の目的からすれば完全な失敗で、細胞核も含めて全ての組織が完全に脱色されてしまいました。しかし、たまたま細菌だけが脱色されずに残っており、これに目をつけたグラムは、細菌を染色する方法として研究を続けました。この時期にグラムがサロモンセンに送った手紙によると、フリートランデルは大変誠実で親切であり、グラムの成果に大変喜んでいたそうです。1883年中には、グラムは新しい細菌染色法をほぼ確立したようで、グラム染色に関する最初の記述は1883年のフリートランデルが投稿した論文に簡単に記載されています。

フリートランデルはグラムの染色法を高く評価し、彼の肺炎の菌に関する論文でグラム染色についての世界で最初の記述をしています。その論文でフリートランデルは

コペンハーゲンから来たグラム博士が、細胞核とフィブリンはほぼ完全に脱色しつつも、細菌は染まったままにできる新しい染色法を開発した。
この方法は少数の細菌でも大変エレガントに染めることができ、しかも厚みのある試料であっても簡単である。

と絶賛しています。グラム自身の手による論文はフリートランデルが編集を行っているFortschritte der Medicin誌に1884年に掲載されました。この論文についても、フリートランデルは、編集者による補遺として「現時点では最高の細菌染色法である」と書き添えています。

グラム陰性菌

このように、染色法自体は非常に高い評価を受けており、グラム自身既存の染色法より優れていることには自信があったにも関わらず、冒頭で紹介したような非常に控えめな結びの一文を書き残して、1884年の3月にはベルリンを後にしてしまいます。それにはグラムの染色法で染まらない細菌、グラム陰性菌の存在が関わっていました。

多くの試料では肺炎球菌(Streptococcus pneumoniae)の大変良好な染色が認められているものの、一部に染まらない細菌が見つかっていました。グラムは、この細菌を彼の染色法では染まらない性質を持つ別種の細菌だと考えていましたが、1つの病気に複数の原因菌が存在するということが受け入れ難かったのか、フリートランデルはそれは試料が古かったか死後の何らかの作用によって容易に脱色できる状態になってしまっただけのことだと考えました。この問題に関する2人の対立は相当に深刻であったことが、この時期にグラムがサロモンセンに送った手紙から読み取れます。
結局、グラムは細菌と染色に関する研究を止めて、1884年3月20日にベルリンを離れました。

その後

ベルリンを離れたグラムは休暇をとり、その後、数ヶ月間ストラスブールの薬理学の研究所で仕事をしています。
この時期のサロモンセンへの手紙によると、どうやらフリートランデルもグラム染色で染まらないもう1種類の病原菌(Klebsiella pneumoniae)の存在を認めるようになっており、「フリートランデルも私の考えをかなりの程度共有しているものと信じています」と書いています。しかし、肺結核を患っていたフリートランデルの体調悪化などもあり、グラムがベルリンを離れてから2人が顔を合わせる事はありませんでした。(グラム染色では染まらない肺炎菌の問題は、1886年のヴァイクセルバウムの論文によりグラム陽性菌とグラム陰性菌が存在することが確認されて決着しました。)

ストラスブールからコペンハーゲンに戻ったグラムは、研究を止めて治療に専念しました。それから54年後、85歳になるグラムは1本の論文を発表しますが、それは肺炎の血清療法に関するもので、細菌や染色とは関係のないものでした。

参考文献

  1. Gram H. C., Ueber ide isolirte Färbung der Schizomyceten in Schnitt- und Trockenpräparaten., Fortschritte der Medicin, 2(6), 185-189 (1884)
  2. W. H. Perkin, The origin of the coal-tar colour industry, and the contribution of Hofmann and his pupils, J. Chem. Soc. Trans. Vol. 69, 596-637 (1896)
  3. Meth-Cohn O. and Smith M., What did W. H. Perkin actually make when he oxidised aniline to obtain mauveine? J. Chem. Soc. Perkin Trans. Vol. 1, 5-7 (1994)
  4. Jacobson W., Gram's discovery of his staining technique, Journal of infection, Vol. 7, 97-101 (1983)
  5. Popescu A. and Doyle R. J., The Gram stain after more than a century., Biothechnic & Histochemistry, Vol. 71, No. 3, 145-151 (1996)
  6. McClelland R., Gram's stain: the key to microbiology., Med. Lab. Obs. Vol. 33, No. 4, 20-31 (2001)

細胞夜話作者の余談

  • いつものように母校の図書室で文献を物色していたのですが、今回使用した資料の1冊の見返し(表紙の裏)にふと目をやると、何やら見慣れぬ紋章のついた紙が貼り付けられていました。ちょっと気になって読んでみたところ、「1923年の地震(関東大震災のことです)で失われた英国の本の代わりとして英国民からのプレゼント」なのだそうです。連綿と連なる歴史の流れの末端にいる自分を認識する一瞬でした。
  • 冒頭のグラムの論文の結びの訳は、細胞夜話筆者のなけなしのドイツ語力を駆使した結果です。今回ほど第二外国語にフランス語を選択してしまったことを後悔したことはありません。間違いやニュアンスの訂正など、ご指摘をお待ちしております。BioDirect-JP@cytiva.com
  • フリートランデルはベルリンを離れた後もグラムを科学者として高く評価していたそうですので、もしもフリートランデルが1887年に早世せずグラムとの対話が実現していれば、もう少し違った歴史が見られたかもしれません。
  • 一部の資料には「パーキンが研究を止めて染料工場を起業することにホフマンが反対した」と書いてありますが、「spoke in a very discouraging manner」とパーキンが書いていることからして、相当に厳しいことを言われたのでしょう。ホフマンは事業の失敗によって若い研究者の将来に悪影響が出ることを心配してくれたのではないか、とパーキンは書いていますので、感情的なしこりは残らなかったのようですが。

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