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酵素は以前はタンパク質であると考えられていたが、これはもはや信じられていない。(ブリタニカ百科事典、1929年)

生化夜話 第1回:酵素の-aseは誰のアイディア?

連載開始にあたって

2005年5月から2008年3月まで連載していた細胞夜話は「細胞を扱う研究者が飲み会で話す余談のネタを提供する」をコンセプトとしていました。その後を継ぐ形で始まる本連載「生化夜話」も、同様に「研究者が飲み会で話せる生化学関係のネタを提供する」ことをコンセプトとしています。忙しい研究生活の合間の息抜きとして、筆者の駄文にお付合いいただければ幸甚です。

生化夜話主担当(元細胞夜話主担当)


生化学は、化学と生理学から生まれた学問です。そこで、ちょっとだけ化学の方向にそれてみます。

ドイツ、ドイツ、ドイツ

ペーハー、ナトリウム、カリウム、モリブデン、キナーゼ、デヒドロゲナーゼ、シンテターゼ、ルシフェラーゼ、、、

最近ではかなり英語化が進んでいますが、化学や生化学、医学の用語にはドイツ語が多数含まれています。それがどうしてかというところについては、多くの方がご存知の通り、日本が諸外国に追いつくためにせっせと技術導入していた頃、そういった学問の先進国はドイツだったからです。では、なぜドイツが先進国だったのでしょうか?いわゆるドイツという名前の国家が成立したのが1871年(帝政ドイツ)、そのドイツ統一の中心となったプロイセン王国にしても1701年という比較的歴史の浅い国です。そういう若い国が、より歴史の長く基盤もしっかりしていそうなフランスなどを追い抜いて化学研究の中心になったのはどうしてでしょうか?

18世紀、化学は医学教育の一環であり、薬学の一部ということになっていました。この頃の化学は、フランスの植物園が中心的な役割を果たしていました。そのまま進めば、後世の人々は化学用語でフランス語をたびたび目にすることになるところですが、政治の横槍が入ります。ナポレオンの中央集権化によってパリからの統制が強化されたために、地方の自由度が低下しました。その結果、後のパスツール研究所のようにパリでは活発な研究が続きますが、地方の大学での化学研究は立ち遅れてしまい、フランス全体としてのパフォーマンスはなかなか上がらなかったのです。

ドイツ(プロイセン)では、(独立した小国を次々に併合してきたその成り立ちゆえのことなのか)各地に独立した大学があり、お互いにその成果を競い合っていました。その当時の化学研究の先進国であったフランスに留学した研究者たちは、帰国後は首都ベルリンだけでなくそういった地方の大学にも分散しました。彼らが中心的な役割を果たすことで各地に化学の研究センターができ、化学研究が全国的に盛んになりました。なお、後に生化学研究が大変盛んになったスウェーデンでも、この時期にドイツと同様の動きがあったそうです。

ちなみに、フランス同様に歴史が長く安定していたイギリスはどうだったかというと、博識な紳士が尊敬されるお国柄のせいか、大学では専門教育よりも一般教養が重視されていました。そのため、化学研究の発展は遅れ、ようやく大学の学問分野として化学が根付いた頃には、ドイツでは既に物理化学が学問分野として確立されているという有様でした。

中央集権化によって沈滞してしまったフランスと、地方の力で先進国になったドイツ。政治に関わっても時間を取られるだけでろくなことはなさそうですが、政治が科学にどう関わってくるかは知っておいたほうが良いかもしれません。


発酵素

酵素の研究が始まった頃は、発酵が非常に重要なテーマでした。アルコール発酵は酒やパンの製造の基本でしたし、発酵の中でも人間にとって都合の悪いものを生成する腐敗は、やはり食料の保存の点で重要でした。そういうさまざまな発酵を引き起こすものとして、「発酵素(ferment)」というものの存在が考えられていました。

発酵素の正体については、それが何らかの生物によるものなのかが、まず大きな問題になりました。シュワン、カニャール=ラトゥール、キュツィングは、酒の中に微生物と思われるものを発見し、その微生物(酵母)がアルコール発酵を起こしているのだと主張しました。一方、当時の化学者、ベルセリウスやリービッヒたちは、アルコール発酵を単純な化学反応であると主張して、生物によるものであることを否定していました。

後に、パスツールが酵母が存在し、かつ酸素が利用できない状態である場合に限って起こる反応であることを証明し、アルコール発酵が生物の作用によるものであるとしてこの論争には決着がつきました。しかし、その決着は、発酵素とは、酵母そのものなのか、あるいは酵母に含まれる何かなのか、という次の論争の出発点にもなったのでした。

最初の発酵素

1833年、パリの砂糖工場の支配人だったペイアンとデキストリンの発見者の一人であるペルソが、麦芽の水抽出液にアルコールを加えてできた沈殿を使って、デンプン粒を液状にできることを示しました。これが、世界で最初に発酵素を単離した実験だと言われています。

ペイアンとペルソは、その沈殿に含まれる発酵素にはデンプン粒の外皮を破る作用があるものと考えて、ギリシア語で「破口をつくる」という意味のδιαστασις(対応するアルファベットに置き換えるとdiastasis)から、Diastase(ジアスターゼ、今のアミラーゼ)と命名しました。ここは筆者の推測ですが、おそらくdiastasisの語幹と思われるdiastasの語尾にeを付加して、フランス語の女性名詞化したのではないかと思います。

ペイアンとペルソの発見に続いて、さまざまな発酵素が発見されますが、その名前はペプシンやトリプシンのようにnで終わっているものもあれば、リパーゼのようにaseで終わっているものもありました。そして、19世紀も終わろうとしている1898年、デュクローがDiastaseの最後の3文字-aseを発酵素命名のルールにすることを提案し、それが受け入れられて現在に至っています。

そして酵素へ

その当時の知識や技術でも単離することができて、細胞外でも機能させることができるジアスターゼのような発酵素もありましたが、酵母によるアルコール発酵のように、細胞から取り出したり細胞が死んでしまったりすると発酵が起こらなくなるものもありました。そこで生きた細胞がないと機能しない発酵素を「有機化された発酵素」、生きた細胞でなくても作用するものを「有機化されていない発酵素」と呼ぶようになりました。しかし、その「有機化されていない発酵素」には、消化酵素のような発酵とは呼べない反応を触媒するものまで含まれており、そもそもこれを発酵素と呼んでよいのか、という議論にもなりました。そこで、1878年にキューネが、とにかく「酵母の中に含まれているもの」として一括しようと言うことでenzymeという名称を提案しました。enは英語のinに相当し、zymeはyeastに相当するギリシア語です。enzymeという言葉は、ドイツとイギリスではすぐに受け入れられ、一般化してゆきました。ちなみに、フランスではジアスターゼが酵素全般を指す言葉としても使われており、enzymeが浸透するまでには時間がかかったそうです。

酵素の研究をしたくてやったわけでは、、、ブフナーの実験

上記のように、酵素は生きた細胞が必要なものと必要でないものに分けられていましたが(もちろん、現在の生化学の知識からするとあまり意味のない区分です)、その区分を終わらせたのが、エドアルド・ブフナーによる無細胞系でのアルコール発酵の実験であると生化学の教科書には書いてあります。それはそれで正しい評価ではあるのですが、ブフナー自身は、はじめからアルコール発酵の研究をしたくて実験を行ったわけではありませんでした。

エドアルド・ブフナーの兄、ハンス・ブフナーは細菌学者でした。病原菌で免疫した動物から得られた血清を注射することで、まだ感染したことのない動物を病原菌から保護できることが発見されていました。ハンスは、その現象は、病原菌自体に含まれる「抗毒素」によるものだと考えており、エドアルドと一緒に病原菌の内容物を抽出する方法の改良を行っていました。努力の甲斐があって抽出法は確かに改善されましたが、その抽出液の保存が問題になりました。抽出して放置しておくと、急速に劣化してしまうのでした。そこで、ハンスとエドアルドは、抽出液に防腐剤としてさまざまな物質を加えては、その効果を調べていました。そして、たまたま酵母の抽出液に果物の防腐処置に使う高濃度のショ糖を加えたところ、それまで生きた酵母なしでは起こらないとされていたアルコール発酵が観察されたのでした。

酵素の正体は?

こうして紆余曲折を経て研究が進んできた酵素ですが、では、その酵素の正体は何なのかというところでも、すんなりとはいかなかったようです。その正体がタンパク質であるとする説もかなり早い時期から提案されていたようですが、さまざまな説が主張され、さまざまな実験結果が示されたことで迷走し、このページの冒頭に書いたように、タンパク質であるということがほとんど信じられていない時期すらありました。また、中には当時発見されたばかりの放射能を持ち出してきて、酵素は放射性物質であると主張する研究者もいたそうです。


タンパク質

物質としてのタンパク質の記載自体はかなり古い時代に溯ることができます。1世紀、ローマのプリニウスは卵白にある凝固する物質について記載しており、それを「アルブメン」と称しています。しかし、タンパク質の本質に迫ろうとする研究が行われるのは、はるか後世のことになります。

19世紀に入ったばかりの1801年、フルクロアは血清が加熱によって卵白と同様に凝固する様子を観察し、血清に含まれていて凝固する物質を、前述のアルブメンと同様の物質であるとして、アルブミンと命名しました。

それに続いて、同様に凝固する物質として、カセイン、フィブリン、グルテンなどが見つかりました。ちなみに、当時の研究法はというと、抽出液をとにかく煮る、という何とも手荒なものでした。

そうやって見つかった「加熱すると凝固する物質」は、その当時の呈色反応などではよく似た性質を示したことから、最初に見つかったアルブミンから名前をとって、アルブミノイドと呼ばれました。

あまり流行らなかったプロテイン

さまざまなタンパク質(アルブミノイド)が見つかり、その性質や組成についての関心が高まりました。そうした流れの中で、タンパク質を構成している元素組成を調べた研究者もいました。プロテインという言葉は、その中の一人、ムルダーの1838年の論文で初登場します。

ムルダーはタンパク質の元素組成を研究し、その結果としてC40H62N10O12(後にC36H54N8O12に訂正)からなるラジカルがタンパク質の本体であり、これに硫黄やリンが結合してさまざまなタンパク質ができあがるとする仮説を出しました。ムルダーは、彼の論文でC40H62N10O12のラジカルを「プロテイン」と呼びました。

この「プロテイン」という名前を初めて使ったのはムルダーですが、その発案者はムルダーではありません。プロテインという名称を考えたのは、ベルセリウスでした。タンパク質の本体であるムルダーのラジカルについて、ベルセリウスは「第一のもの」という意味のギリシア語「プロテイオス」から「プロテイン」という名称を考案し、ムルダーへの手紙の中でその名前を勧めたのでした。

ムルダーの仮説は大変シンプルであることから、発表直後は多くの研究者から支持されました。しかし、他の研究者が追試をしてみたところ、ムルダーの仮説と一致しないことが多く、特に窒素含量がタンパク質によって大きくばらつくことから、ムルダーの仮説は支持を失ってゆきました。それに合わせて、ムルダーが提唱したタンパク質の基本単位「プロテイン」も廃れてゆき、その後もアルブミノイドという名称が一般的に使われました。

電解質としてのタンパク質

タンパク質の性質の研究によって、熱だけでなくpHを変えることでもタンパク質が凝固することが分かってきました。それを皮切りに、19世紀末から20世紀はじめにかけて電解質としてのタンパク質の研究が盛んに行われるようになります。

それらの研究は、やがてティセリウスによる電気泳動へとつながってゆくことになりますが、本稿でそこまで扱ってしまうと、息抜きと言うには重厚長大に過ぎるかと思いますので、今回は最後に電解質としてのタンパク質の研究についての下らないお話をご紹介します。

pHの変化がタンパク質の機能に影響することが明らかになってきたことから、タンパク質の研究を行う際にpHをある一定の範囲に保つことの重要性が認識されるようになりました。pHを維持するために、今日の研究でもそうであるようにバッファーが使用されるようになりました。その「バッファー」という言葉ですが、元々は1900年にフェルンバッハとユベールが使ったフランス語の訳語で、その言葉は止血栓という意味の他に鉄道の緩衝器という意味もあった「tampon(タンポン)」でした。生化学用語の標準がフランス語でなくて良かった、と思うのは筆者だけでしょうか。。。


参考文献

  1. 丸山工作, 生化学(三訂版), 裳華房(1993)
  2. ジョゼフ・ニーダム, 生化学の歴史, みすず書房(1978)
  3. フルートン, 生化学史:分子と生命, 共立出版(1978)

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